第5回 史跡・文化財めぐり「堀兼地区」
実施日:平成28年10月13日(木) 8時20分集合~12時15分現地解散
天 候:曇 20度 風なし 午前中曇空が続きました。
地 区:堀兼地区 コース距離 約7㎞
コース:狭山市駅東口広場集合→狭山台南バス停…下新田の石仏群…権現橋の石仏群…堀兼神社…堀兼・上赤坂公園(休憩)…上赤坂の弁財天…堀兼新田…光英寺(現地解散)…堀兼農協前バス停→新狭山駅
参加者:髙橋先生 受講生21名 スッタフ5名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢33名
■下新田の石仏群
・普門品読誦供養塔(ふもんぼんどくじゅくようとう)
この供養塔は明治3年(1870)2月に建てられた比較的新しいもので、普門品読誦供養塔といい、正面に「普門品供養」と刻まれているように、観世音菩薩普門品、一般に観音経という経典を一定回数唱えた記念として建てられた文字塔です。他に馬頭観音、六地蔵などの石仏が存在します。
■権現橋袂の石仏群
・石幢六地蔵(せきどうろくじぞう) 権現橋に向かう途中の堀兼上交差点付近にあるこの六地蔵は日待ち・月待供養塔で、貞享3年(1686)に造立されました。六面体に一体ずつ地蔵が刻まれています。交通量が多いため、歩きながら見学しました。
・権現橋の由来については、橋のたもとに子ノ権現が祀られているところから権現橋といわれ、その下を流れている川は不老川で、昔は「としとらずがわ」といわれました。
他に月待供養塔、馬頭観音、地蔵菩薩などの石仏が存在します.
■堀兼神社
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に浅間神社と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。
・随身門及び二神像 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
・堀兼神社神楽殿の裏に3基の庚申塔、出羽三山供養塔などが存在します。
・堀兼之井は昭和36年(1961)9月1日に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干をめぐらした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁があり、現在は大部分が埋まっていて、かつてはどのような姿であったかは不明です。
■上赤坂の石仏群
・この弁財天は、建てられたのは元禄13年(1700)11月です。頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてない)、左手に宝珠を持つ姿に造られ、台座には波を切って走る帆掛舟が刻まれています。
交通量が多いため休憩所の堀兼・上赤坂公園でガイド説明をしました。
■堀兼新田
・土地が広く整然と区画されているこの周辺一帯が「堀兼の新田」で、堀兼村は江戸時代前期に開発されて誕生した新田村です。
新田開発に着手したのは慶安2年(1649)で、開発を命じた人は川越藩主で当時老中であった松平伊豆守信綱でした。新田の特徴は、土地区画が整然としていることです。
入植者に与えられた土地は、平均間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の長方形の土地で、面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした。
■光英寺
・当寺は堀金山山王院光英寺といい、宗派は真言宗豊山派で、本尊は木造大日如来坐像です。
創建については、数度の火災により古記録を失っていて不明です。
・念仏弐億万遍供養塔は享保12年(1727)2月に建てられたものです。正面に阿弥陀三尊の種子と銘文が彫られ、堀兼村の村民911人が南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を2億万回唱えた記念に建てたことが分かります。 その回数が2億万回と刻まれていますので、長い年月をかけて達成されたと推測されます。