第8回 史跡・文化財めぐり「広瀬地区」
実施日:平成29年11月16日(木) 8時20分集合~12時20分現地解散
天 候:晴 17度 風少し強し
地 区:広瀬地区 コース距離 約4.5㎞
コース:狭山市駅西口広場→日生団地バス停…今宿遺跡…影隠地蔵…広瀬公民館(休憩)…信立寺…清水宗徳之墓…広瀬浅間神社…禅龍寺…広瀬神社(現地解散)…広瀬消防署前バス停→狭山市駅
参加者:髙橋先生 受講生31名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会7名 総勢45名
第8回の史跡・文化財めぐりは広瀬地区。
寒くなりましたが天気も良く、史跡・文化財めぐりに最適でした。受講生は広瀬地区の街並みのコースをめぐり、最後まで熱心に説明を聞いていました。
今回は3名の機関誌・広報担当者から投稿がありましたので掲載します。
■今宿遺跡
・この今宿遺跡は入間川左岸の段丘上にあり、奈良・平安時代を主体とする集落跡で、大規模宅地である日生団地の造成に伴い昭和44年(1969)4月に発掘調査が行われました。
今宿遺跡は市内で最初に実施された大規模調査の遺跡で、市内で唯一の復元住居があり、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
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広瀬囃子を後世に残してほしい
機関誌・広報担当 第4班 川野辺 徹
「狭山の歴史講座、野外学習」も8回目、今回は広瀬地区の史跡・文化財めぐりが行われた。毎週1回の座学では日本の歴史を特に狭山市に関連のあることを中心に髙橋講師から教えていただいていますが、私にとってはこの野外学習は特に楽しみです。
これまで長く狭山市に住んでいても行ったことが無かった所が多く、またその前をよく通るのに立ち寄ったことが無かった所に行き、狭山歴史ガイドの会の方々からそのいわれや、歴史を伺い、昔の人々の暮らしを改めて感じています。
今回最初に訪れた今宿遺跡は、大規模団地の造成に先立ち、遺跡調査が行われたところです。平安時代を主とした集落遺跡で、48軒発見され、そのうち1軒は復元されている。付近からは多くの生活用品の土器が発見されたとのこと。1000年以上前に、私たちの住んでいる狭山市に暮らしていた人たちに何か親密感を感じました。
広瀬神社は古社だそうで、境内には樹齢800年と言われる大ケヤキがそびえている。3本あったそうですが、1本は近年雷で焼け落ちたとのことでした。同社の素晴らしい神輿をまじかで見ることができました。この神輿も担ぎ手がだんだん少なくなっているそうです。この神社で例大祭に行われている広瀬囃子もそれを踊る後継者が心配されているとのこと。市内の学校で積極的に宣伝をし、指導したりしてぜひ後世にこのような伝統を残してほしいと思いました。
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■影隠地蔵
・かつての鎌倉街道上道(かみつみち)、現在の奥州道(おうじゅうどう)交差点付近に建っているこの地蔵菩薩は「影隠地蔵」といわれ、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
丸彫の地蔵菩薩の名前の由来は、木曾義仲の嫡男清水冠者(かじゃ)義高が鎌倉からここ広瀬の地まで逃げて来たとき、源頼朝の追っ手が迫ってきたので地蔵菩薩の背後に隠れて危急をのがれたところから生まれたもので、それ以来影隠地蔵と呼ばれています。
■広瀬公民館(休憩) 機織り機の展示
・博物館に保管されていた斜子織(ななこおり)の機織り機は、狭山遊糸会(ゆうしかい)の方々により、修理し復元されました。
また、広瀬公民館の談話室で「広瀬斜子サロン」が開催されています。
偶数月は第2日曜日、奇数月は第3金曜日 午前11時~午後3時まで開催。
■信立寺
・当寺は惺按山(せいあんざん)信立寺といい、江戸時代から続く市内唯一の日蓮宗寺院で、池上本門寺の末寺です。創建は古記録によると天正7年(1579)と伝えられています。
開基は、当地方を領有していた加治左馬助家信(かじさまのすけいえのぶ)で、隣接する墓地の中央辺りには家信の墓と伝えられる五輪塔があります。
■清水宗徳之墓
・清水宗徳は明治の産業近代化の先覚者で、非常にスケールが大きく時流を見極める先見性に優れた狭山市が生んだ大人物です。この墓は昭和55年(1980)6月2日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。墓の高さは全高369cmです。
清水宗徳之墓をガイド説明 墓の前に移された入間馬車鉄道のレール
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機関誌・広報担当 第1班 永井修二
史跡・文化財めぐり、今回は広瀬地区です。清水宗徳のお墓の隣に珍しい墓石がありました。
狭山が生んだ偉人、清水宗徳。上広瀬村の名主の子として生まれ、衆議院議員として農民に配慮した地租改正を、また養蚕・織物産業の振興、鉄道敷設等により明治の近代化を推進した人物である。宗徳が私たちに遺した最大の贈り物は現在の西武線(川越から入間川・所沢を経て国分寺に至る路線)であるとのこと。併せて入間馬車鉄道を開業、運営し、現在の狭山市の発展の礎を築いた人物である。その功績を残すため墓石の前には馬車鉄道のレールが供えられている。
説明のあと振り返ると「〇〇家奥津城」と刻まれた墓石があった。以前から、“奥津城”の意味は何だろう?と疑問を感じていた。
奥津城は「おくつき」と読み、神式のお墓との事であるとのこと。ある資料によると、「奥」とは奥深い意の「おく」、「津」は「の」と同じ意味で、「城」は柵や壁などで四方を囲んだ一郭を意味し、柩(ひつぎ)という意味もあるとされています。凡その意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた境域」とのことです。
奥津城と刻まれた墓石(写真提供 受講生 永井修二)
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■広瀬浅間神社
・当神社は万延元年(1860)7月に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建されました。河岸段丘を利用して造られた当神社の富士塚は登り口に石造の立派な鳥居があり、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられています。
・当神社にはお社(やしろ)がなく、この庚申堂が浅間神社と間違えやすいのですが、このお堂にはかつて正覚院(しょうがくいん)にあった庚申塔が祀られています。
この庚申塔は寛政11年(1799)12月に建てられたもので、丸彫りの青面金剛は市内ではこれ1基のみです。
■禅龍寺
・当寺は万寿山禅龍寺といい、宗派は曹洞宗です。境内にある三仏堂内に安置されている木造千手観音菩薩坐像は昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・彫刻として指定されました。
■広瀬神社
・当神社は上奥富の梅宮神社と並ぶ古い神社で、社伝によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に、この地が大和の国、現在の奈良県の広瀬河合の地に似ているところから「広瀬」と命名し、大和の広瀬神社を勧請(かんじょう)したとされています。
・境内にある2本の大欅(おおけやき)は当神社の御神木で、平成10年(1998)3月17日に埼玉県指定文化財・天然記念物として指定されました。参道脇の本殿に近い欅は高さ32m(現在は枝が折れたりして不明)、幹回り6.3m、樹齢は800年を超えているといわれています。
・斜子織(ななこおり=魚子織)の碑は、明治10年(1877)11月に埼玉県令白根多助が当地を訪れたことを記念して明治24年(1891)4月に建てられたもので、全高は223cm、幅は234cmという大型の石碑です。
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広瀬地区をめぐって
機関誌・広報担当 第6班 島方 光男
狭山市を支える産業(衣食住に必要な財貨を生産する)に携わる、通勤通学の時間帯でバス待ちで混雑する狭山市西口に集合する。バスに乗り日生団地を下車した団地内に最初の見学場所、今宿(いまじゅく)遺跡があり奈良・平安時代を主体とする集落跡です。
発掘は昭和44年(1969)で市内最初の大規模宅地開発に伴うもので、発掘面積は、稲荷山公園の1/3の面積約7万8000㎡で48軒の竪穴式住居跡で、3軒を保存(1軒を復元)されています。同じ場所にメタセコイヤの化石も展示され、笹井の宮地遺跡と同線上の入間川左岸段丘上にあります。
高橋先生のお話しで、学術発掘調査は、100%費用補助があり、緊急発掘調査(開発に伴う)場合は、業者負担だそうです。
影隠(かげかくし)地蔵は、源義仲の嫡男の清水冠者義高(しみずのかんじゃよしたか)が源頼朝の放った追手から逃れるため、地蔵の背後にその姿を隠した所から名付けられたとされていますが、高貴な家柄に生まれる人の説話として伝えられたそうです。
同じ場所に道しるべを兼ねた石橋供養塔があり、その表示には、「北 小川道、東 川こえみち(川越)、西 八王子、南 江戸道」と記載されています。
信立寺へ向かう途中、左岸段丘の中腹に土塀の納屋の家屋を受講生が山崎さんのお宅との話声に同班のNさんに山崎さんとは誰ですかと聞くと市会議員を歴任したお宅であることを教えて頂きながら信立寺に到着。
江戸時代から焼失されない寺で市内の寺院では最も古い日蓮宗の建物で、隣接する墓地には、山崎姓の墓石が多くあり、その中に大きな陸軍大将山崎と書かれた墓地の一角の墓石にNさんが手を合わせていたので聞くと叔母の墓で以前来たことがあるとの事で狭山市に住んで長いのですかと尋ねたら数十代受け継がれた家系の方だとわかり、にわか郷土の歴史かぶれと違いますねと言ったら、ただ永く住んでいるだけと苦笑いされる。
本堂の左側に鬼子母神堂舎があり法華経の守護神とされ日蓮宗の寺院に祀られることが多い神で、安産・子育ての神としても信仰されている。
狭山市内の名前の付いた坂道11か所の襷坂を登り切ったところに天保14年(1843)12月に上広瀬村名主の子として生まれた、清水宗徳(しみずそうとく)之墓があり、宗徳は文久3年(1863)に父の跡を継いで名主になり明治23年(1890)には2期で衆議院議員を辞め、その後は市域の産業発展に全精力を傾けました。
地方の発展には交通機関の整備が必要との強い信念のもと、川越から入間川・所沢を経て国分寺に至る川越鉄道の敷設に執念を燃やし、明治28年(1895)3月21日にこれを開通させました。
入間馬車鉄道は、明治34年(1901)5月10日に開業しましたが、当地方の主力産業である製糸業や織物業の不況のあおりを受け、開業当初から赤字経営が続きその立て直しをしたのが宗徳で、社長に就任するとその再建に乗り出し自らの報酬を会社に寄付する一方でサービスの改善と経営の合理化に努め、負債の償却の道筋をつけると、それを土産に社長の座を退きました。墓石の前に馬車鉄道のレールが供えられているのは、その功績を後世に伝え残すためです。
高橋先生の余談話で国内の線路幅は、新幹線1435㎜、JR在来線民鉄各社の国内最多1067㎜、その他…の線路幅だそうです。
明治42年(1909)8月17日に67歳でこの世を去りました。宗徳が先鞭をつけた地域経済構想は、自らの手では実現出来ませんでした。しかし、同人が築いた産業の近代化はその後着実に根づいて花を咲かせ今も入間川左岸段丘の狭山市を一望する墓地から見守っている様です。
墓地に道を隔てた所に広瀬浅間(せんげん)神社があり、庚申堂の石像をしげしげと見ていたらガイドさんから説明して頂き、閻魔大王の様な形相にて、鬼を左足で踏み、右手で裸身の女性の髪を手掴みにし、座石には3猿が彫られ珍しい石像とのことで地蔵十王図思い出してしまいました。
禅龍寺(ぜんりゅうじ)は曹洞宗の寺院で、享保年間(1716〜36)の鋳造の梵鐘には、玉岫嶙公尼(ぎょくしゅうりんこうに)が明応年間(1492〜1501)に創建、華厳分説(けごんぶんせつ)が天正元年(1573)に中興開山したと刻まれていたといわれています。以前は臨済宗から曹洞宗に改められた。
境内の木造千手観世音菩薩像は、鎌倉の東慶寺(臨済宗=北条時宗夫人の覚山尼が開山の寺)より持ち帰ったとの伝承が残っているとのことで当時、禅龍寺は、公尼=尼になった高貴の女性と繋がる関係があったのではないでしょうか?
寺の塀は築地塀(ついじべい)は泥土を突き固めて作って塀と言って2本線で格式が高いとの説明でした。京都御所などは5本線で最高位。広瀬神社へ向かう途中、ガイドさん・スタッフ・受講生との間にて数の線で、ヘルメットの線・旧制学校の学帽・軍隊の階級章・最後には新田義貞の家紋…との話で盛り上がる。
広瀬神社には、推定約800年を超える巨木のケヤキが2本あり、上広瀬村の名主(清水宗徳)と社補が1864年奉納した神輿(みこし)の飾りには、斜子織又は魚子織(共にナナコオリ)が施されている。県内最初の機械製糸工場の暢業社(ちょうぎょうしゃ)は清水宗徳の呼びかけにより14名が現在のヤオコースーパー付近に設立する。
前回の笹井・根岸地区史跡・文化財めぐりと同様に入間川左岸段丘を共有して狭山市の産業文化の基礎を築いて発展して来た地区だと思われました。