写真・編集:狭山の歴史講座スタッフ 遠藤 猛
平成27年10月1日(木)後期の「狭山の歴史講座」の野外活動として入間川地区の史跡・文化財めぐりが実施されました。
当日は低気圧が発達し荒れ模様になる予想でしたが、午前中は曇りで予定通り実施されました。髙橋先生、受講生29名、スッタフ5名、狭山歴史ガイドの会(ガイド説明の支援)7名の総勢42名が参加しました。
狭山市駅西口広場に8時30分集合。12時20分に慈眼寺で現地解散しました。
行程は、狭山市駅西口広場→綿貫家の墓地→福徳院→徳林寺→市民交流センター(休憩)→八幡神社→清水八幡→諏訪神社→慈眼寺→現地解散。距離は約4㎞でした。
■綿貫家の墓地
・綿貫家初代の綿貫庄左衛門は、16世紀半ばに上州綿貫村(現群馬県高崎市綿貫町)から入間川に移住しています。江戸時代に栄えた豪商で、江戸では米穀商を営み地元では酒造業などを営むといったように手広く商売を行い、明和2年(1765)の一揆の際には家財などを打ち壊され、蔵の中は酒が溢れて海のようだったといわれます。
18世紀前半には相当の財力を蓄えており、江戸後期には「西の鴻池・東の綿貫」と並び称されたと伝えられています。
■福徳院
・当院は綿貫家2代目孫兵衛が創建した寺院ですが、創建の時期などについてはよく分りません。本尊は綿貫家の守り本尊といわれる不動明王です。
・当院の参道左側に三面八臂(はっぴ)の丸彫馬頭観音坐像があります。丸彫の馬頭は珍しいものです。馬頭観音は、畜生道に墜ちた人々を救う仏といわれています。また江戸時代後半には馬が交通運輸や農耕作業の中心であったことから、馬の守護仏として信仰されるようになりました。
■徳林寺
・当寺は福聚山(ふくじゅさん)徳林寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は入間市金子にある瑞泉院です。創建時の宗派は不明ですが、天文元年(1532)に曹洞宗に改宗しています。
・当寺には、第13代横綱鬼面山の墓誌が武隈家墓地にあります。
・絹本着色釈迦涅槃図と釈迦八相図は昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。釈迦涅槃図はお釈迦様の臨終を描いたものです。釈迦八相図は、お釈迦様の生涯における8つの事跡を描いたものです。
■八幡神社
・当神社は旧入間川村の総鎮守で、創建については過去に数度の火災により古記録を失っているため不明です。祭神は応神天皇で、天照大神と春日大神を合祀しています。
本殿は昭和48年(1973)3月1日に狭山市指定文化財・建造物として指定されました。
本殿は今まで度々火災により焼失しており、現在の本殿は寛政8年(1796)4月から6年の工期をかけて享和2年(1802)7月に完成したものです。
■清水八幡
・清水八幡は清水冠者義高を祭神とする神社で、昭和52年(1977)4月1日に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。
義高は木曽義仲の嫡男として生まれましたが、寿永2年(1183)に父義仲と源頼朝が一時不仲となったとき、和議の条件として当時11歳の義高は人質として鎌倉に送られました。その後、頼朝の長女大姫の婿になることになりました。
ところが父義仲が頼朝に討たれる事態となり、復讐を怖れた頼朝は義高の殺害を考えました。
これを知った大姫は密かに女装させて鎌倉を脱出させました。しかし、入間川の八丁の渡しまで来たところで頼朝の追っ手に捕らえられ、殺されてしまいました。
首は鎌倉へ送られましたが、残された胴体は哀れんだ地元の人が埋葬して墓を作ったといわれています。
■諏訪神社
・当神社の創建については古文書が失われたため分りませんが、古老の言い伝えによると信濃国諏訪大社の祭神を約400年前に勧請したということで、祭神は武御名方命(たけみなかたのみこと)です。戦国時代の天正10年(1582)に甲斐の武田氏が滅亡した時、多くの家臣が入間川流域に移住して帰農したといわれているので、この人たちによる創建の可能性があります。
・「お諏訪さまのなすとっかえ」の祭事は平成9年(1997)6月2日に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。この祭事は毎年8月26日前後の土曜日と日曜日に行われます。今年は8月22、23日に行われました。
この祭事は自分の畑で採れたナスを神社に奉納し、神前に供えてある別のナスをいただいて持ち帰り、持ち帰ったナスを食べると一年中病気をしないといわれるお祭りです。ナスは夏の毒消し効果があるといわれたことから始まったものと思われます。
■慈眼寺
・当寺は妙智山慈眼寺といい、宗派は曹洞宗で、本寺は徳林寺と同じ入間市金子にある瑞泉院です。
当寺の創建については不明ですが、草庵だった阿弥陀堂が建てられた後に同じ敷地内に創建されたものと思われます。
・阿弥陀堂の本尊であった木造阿弥陀如来立像は、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・彫刻に指定されました。
一樹存松(いちじゅそんしょう)により慈眼寺が開山される以前に現在地にあった阿弥陀堂の本尊といわれ、像高73㎝の一木造りです。