「星祭りの町」 ~津村節子さんと狭山~
日 時:10月26日(水)13:30~15:30
講 師:元狭山市長・西武文理大学特命教授 大野 松茂 様
受講生:出席10名(欠席1名)
津村節子さんは入間川の七夕まつりを主題にした『星祭りの町」という作品の中で、格別狭山との深いかかわりを記されています。津村さんが狭山とどういう関係があったのかご存じない方も多いのですが、この作品を読むといかに深いつながりがあったかが分かります。終戦の年には10才だった大野さん、津村さんはその頃16才。親しくお話するようになったのは平成6年、週刊新潮の取材に市長として協力したのがきっかけだそうです。それ以降津村さんとは長いお付き合いをしているという大野さんにお話を伺いました。
日本芸術院賞授賞式で
平成15年6月、日本芸術院賞授賞式の際、文部科学大臣政務官として列席した大野さん、津村さん夫妻についてこんな話をしてくれました。「この度芸術院賞の候補になりましたが、お受けになりますか」。津村さんの所にこんな電話がありました。余りに正式な口調の電話で、初めは誰だか分からず戸惑ったそうですが、実はかけてきたのは芸術院の文芸部会長であった夫の吉村昭さんだったそうです。また、天皇皇后両陛下に津村さんを紹介する際、吉村さんは「ここにいる者は暫く一緒におるものです。今日も同じ家から出て参りました」とおっしゃったそうです。両陛下もお笑いになっていたとか……。津村さんと夫・吉村さんご夫婦の関係が分かる微笑ましいエピソードです。津村さんの日本芸術院賞の授賞理由は「日本的伝統を身につけた女性の生き方を歴史的視野の元に描く作風を確立し、円熟味をましている」とあります。作品の中で津村さんは戦中、戦後の入間川町の様子を克明に描いています。その後津村さんも芸術院会員になりますが、夫婦で受賞し、さらに会員になるのは非常に稀なことです。
狭山は第2のふるさと
入間川町に疎開し、戦後3姉妹で入間川商店街に洋装店を開いた津村さんは、「狭山は第2のふるさと」と言います。当時の七夕まつりにも参加し、人型に紙のウェディングドレスを着せて吊るしました。まちの話題になりわざわざ見に来る人もいたということですが、大野さんもそれを覚えていらっしゃるそうです。津村さんの作品には入間川町を舞台にしたものが多くあり、『星祭りの町』は勿論、戦後の町の変わりよう、混乱、そして米進駐軍対策として設けられた英語講座を題材にした『Ⅰ町 日米学院』、疎開した入間川町の様子を鮮明に描いた『茜色の戦記』、最も異常な時代の、最も多感な少女期を過ごした第2のふるさとと書かれている『七夕祭り今昔』、等々……。大野さんはこれらについて、空襲の時代の厳しさ、その後の変わりようを克明に描き、歴史の貴重な資料にもなっていると語ります。
平成24年、狭山市立博物館で企画展「ジョンソン基地とハイドパーク」があった際、津村さんは「狭山の青春」の演題で講演しています。その後大野さんは、狭山と深いつながりのある津村さんに「文学碑を作らせていただけないか」と何回もお願いしたそうです。令和2年にお願いに行った際には、息子さん夫婦のご協力もありやっとOKしてもらえたとか……。文学碑は八幡神社境内に無事建立され、令和3年4月に除幕式をする運びとなりました。碑には大野さんの入れたかった『星祭りの街』の一節、「西武線の入間川駅から八幡神社のある小高い丘の下の道をだらだら下ってぶつかった道が入間川町のメインストリートで、入間川に沿ってひらけた細長い町を貫いている」の文字が並んでいます。
さらに大野さんは、狭山の都市像は「緑と健康で豊かな文化都市」ですが、狭山のまちを文化の豊かなまちにしたいと願っている、次の世代にどのような形でつないでいくかが極めて大事だと思っていると言います。作家、日本画や洋画、彫刻、陶芸……、狭山で活躍している文化人は実にたくさんいます。大野さんの口からは、次から次へと狭山に住む芸術家の名前が出てきます。皆さんにこの方たちを知って頂く取り組みをしていくことが大事だと話は続きます。最後に、津村さんは元気で活躍されていますから、まだまだいろんな所で作品を残していただきたい、楽しみにしていると話が結ばれました。
質疑応答
「事前に読んでおこうと図書館で本を借りようとしたが奥の方から出して来た」との話には、「狭山にどういう関係の人がいるのか、コーナーを作って頂けたらと思う。いろいろな機会に声を上げることが大事」との返答がありました。「本を買って読んだが、戦中戦後の様子が良く分かる。もっと狭山の人に読んでもらいたい。市で版権を買い取ってさやま市民に配っては」「狭山に住み、今なお現役で物を書いていくという言葉に胸を打たれ、私も頑張ろうと思えた。紹介いただいた縁で、本を読んでいきたい」等の感想が聞かれました。
受講生感想
❖ 狭山市の歴史を知る上で、津村さんの著作物が大変重要であることを初めて知りました。狭山市にゆかりのある作家の中でも女性作家さんのお話は興味深く、若い頃からの行動力、決断力が昔の女性(という表現が良いかわかりませんが)のイメージとは全く違いました。戦中戦後の大変な時代の中で、津村節子さんが勉強、仕事、作家活動と、様々な経歴を持ち、94歳現役でいらっしゃることにも憧れました。
❖ 作家の津村節子さんを広く狭山市民に知らせたいものです。当たり前のことを当たり前に書いて残すことが大切であることを再確認しました。図書館に「津村節子コーナー」を設置することは、良い企画だと思いました。津村節子さん以外の狭山市内の作家についても知りたいです。また、狭山市に関係する文学を紹介して欲しいです。市内には多くの文化人が暮らしていることも知りました。紹介することが大切です。「緑と健康で豊かな文化都市 狭山市」は、文化を大切にする政策を行ってほしいです。
❖ 自伝的3作品を作品を読ませて頂いておりましたが、濃やかにご説明いただき小説の世界がまた蘇って参りました。同時代を入間川で過ごされた大野先生ならではの詳しいお話でしたので、初めて知ることも多く、作品中の進藤呉服店は遠藤呉服店であったことや、ご両親の出会いの場であることなど、入間川商店街の地図を見ながらのご説明を楽しく拝聴いたしました。また、津村節子さんの作品が少女小説時代を含めて268作品にもなることも認識を新たにいたしました。これからまた『花時計』や『紅梅』なども読ませて頂きたいと思います。戦中戦後の暮らし、吉村昭氏との結婚以来の御苦労や葛藤を乗り越えて逞しく生きる津村節子さんですが、先日のNHKテレビでは書きたいことがまだまだ沢山あると仰っておられ、若輩の我々を励ましてくださいました。益々のご活躍をお祈りしております。