第3回講座テーマ:七曲井・堀兼之井の開削と清水冠者義高
講 師:髙橋光昭
講座日時:令和4年6月30日(木曜日)13:30~15:30
講座方式:Zoomによるオンライン
講座スタッフ:講座リーダー;藤井立喜、スタッフ;青山泰夫、中野恒夫、森 知子、山崎 茂
講座報告者:藤井立喜
七曲井遺跡について
◆発掘調査前の状況→七曲井(ななまがりのい)稲妻形か渦巻形か不明だが、7回曲がっているところから命名。◆文献や史料に見る「ほりかねの井」→伊勢が詠んだ「いかでかと思う心は堀かねの井よりも深き猶そ深さまされる」伊勢は宇多天皇の愛人といわれています。清少納言の『枕草子』や『延喜式』などにも載っています。『千載和歌集』では藤原俊成の詠んだ「武蔵野の堀かねの井もあるものを嬉しく水の近づきにけり」など。◆発掘調査でわかった事実→昭和45年(1970)11月に実施。→昭和45年(1970)11月に実施。井戸の規模は上縁部直径18~26mの楕円形で、深さ7m。井筒は底部中央にあり、深さ4.5m、井桁は松材です。井戸へ降りる道筋は上縁部は稲妻状、途中から底近くまでは曲がり道、底部は井桁を囲むように1周する。出土品などはほとんどが江戸時代後期から明治時代にかけての陶器類など。中世以前にさかのぼるものは、須恵器の破片と文永9年(1272)10月銘、元徳3年(1331)月銘の阿弥陀―尊板碑のみです。このことは七曲井が井戸としての役割を終えたことをあらわしているのではないかと考えられます。一般的に井戸を掘る技術が進歩していったのではないでしょか。
堀兼之井の遺跡についてと八軒家の井
◆堀兼神社との関係→江戸時代まで浅間神社と称す。社伝では、日本武尊が東征のおりに、水がなく苦しむ民を救うため掘ったという。石囲いをめぐらした井戸跡。直径8m余りの円形。未発掘のため詳細は不明。傍らに立つ石碑には宝永5年(1709)3月、川越藩主秋元喬知が家老の岩田彦助に命じて建立。「ほりかねの井」の所在を神社境内にある凹形の地とし、堀兼は堀り難かったと意であると刻む。◆八軒家の井→堀兼之井から750mほど南に行った西側に所在。近くに「井上」の小字があり。直径15m、深さ2mほどの窪みがあります。
◆七曲井と堀兼之井の脇を通る古道→七曲井の脇を通る古道。奈良時代に整備され、武蔵国府から上野国府へ向かって延びる官道。租税や物資の運搬、征東のための兵士や食料の移動に利用されたほか、国分僧寺・国分尼寺の瓦が運ばれた道として知られる。◆堀兼之井の脇を通る古道→前は東山道武蔵路、その後は河越氏の館へ向かう道。◆掘削時期を探る→旅人に欠かせないのが飲料水。飲料水の得にくい地域に井戸を掘る必要が生まれ、公共事業で掘削された井戸です。付近に集落がないのに井戸があるのは、公共的性格が強いため。奈良時代中期以降から平安時代前期に掘られたと推察される。9世紀台には確実に存在していました。
清水の冠者義高について
◆源氏の挙兵と鎌倉幕府の成立◆源頼朝の挙兵→治承4年(1180)4月、後白河法皇の第2皇子以仁王は平家打倒の令旨を発令。同年6月頼朝のもとへも届く。頼朝は挙兵を決意。同年8月に山木兼隆を倒す。石橋山の合戦では大庭景親らの平氏軍に敗れる。しかし、態勢を立て直し父義朝のゆかりの地の鎌倉入りここを本拠とする。◆源義仲の挙兵→越後国から北陸道を西へ治承4年(1180)9月信濃国で挙兵。頼朝は義仲の勢力が強大になるのを危惧し、治承2年(1183)3月に信濃国へ出陣。義仲は敵意がない証拠として、嫡男の清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)を人質として差し出す。◆源義仲の敗死→入京後の義仲は京都守護に任命されるも養和の飢饉(1181年)以来の食糧不足で兵糧が欠乏、各地で略奪を働く。義仲が疎ましくなった後白河法皇は平氏追討を口実に義仲を西国に向かわせる。この間隙をぬって頼朝は天皇家や公家・寺社の荘園所領を本主にかす代わりに軍事権と行政権の行使を朝廷から公認される。窮地に陥った義仲は法皇を幽閉。しかし、寿永3年(1184)1月に宇治川(京都府宇治市)で敗れ、近江国粟津(滋賀県大津市)で敗死。その後平氏追討の院宣、平氏の滅亡、源義経の追放、奥州征伐とつづき鎌倉幕府が成立する。
◆はっきりしない義高の実像→生い立ちが不明な義高。生年と出生地、幼名が不明。元服を挙げた年と場所も不明。『吾妻鑑』では苗字を「志水」、『平家物語』では「義基」「義重」『尊卑分脈』では「義基」と記す。◆文献からわかる義高像→『平家物語』では寿永2年(1183)3月、頼朝との関係修復の目的から、11歳の義高が人質として頼朝のもとへ送られたと記述。『吾妻鑑』では元暦元年(1184)4月、頼朝の娘の大姫の婿になったにもかかわらず、頼朝の命を受けた堀親家の郎党により入間河原で討たれたと記述されています。
◆『吾妻鑑』に見る義高討伐までの経過→鎌倉からの逃亡、女房姿に変装して鎌倉から脱出。入間河原での横死。『吾妻鑑』の元暦元年(1184)4月26日の条に、藤内光澄(とうないみつずみ)が入間河原で討ち取った旨の報告をしたと記述されています。(頼朝が義高討伐を決意したのは義仲が後白河法皇に背いたのが原因。たとえ婿であっても朝敵の子を放置することができず、思案の末の決断)
入間河原と清水八幡
『新編武蔵風土記鋼』の記述は入間川村の子ノ神(ねのかみ)の裏にある八丁の渡しが、義高の討たれた場所とする。その理由は同所が鎌倉街道上道(かみつみち)に位置すること。子ノ神社所蔵の応永23年(1416)の鰐口に「入間郷」とあり、正保年間(1644~48)の国絵図と郷帳にも「入間村」とあるためです。
◆清水八幡→『八幡神社縁起』では清水八幡は義高を祭神とする神社。入間川の里人が遺骸を埋め、墓を築いたのがはじまり。北条政子の庇護を受けてから社殿が立派になったが、応永9年(1402)の暴風雨による入間川の氾濫により流失。本殿に祀られている石祠には永享2年(1400)の銘。義高の鎌倉脱出から入間川で殺害されたことなどを刻む。江戸時代末期に赤間川から掘り出されたもの。
市内に残る義高に関する伝承
◆影隠し地蔵 『新編武蔵風土記鋼』に載る「影隠し地蔵」義高が追手から難を避けるため、地蔵の背後に影を隠したというもの。木像で高さ2尺余り。今は上広瀬村の正覚院にあるが、かっては柏原村境の古街道に面して建っていたと記述。現在「影隠し地蔵」は奥州道交差点の東側に所在。木像ではなく石像。◆出生地と逃亡先に関する伝承 出生地→比企郡鎌形(嵐山町)で出生。同地の清水を産湯に使ったので、「清水冠者」と称するようになったと伝える。史実とことなる。鎌形で生まれたのは父親の義仲です。◆逃亡先に関する伝承 奥州の藤原氏を頼って平泉へ逃亡。義経の逃亡から生まれた伝承で、具体的な逃亡先は不明。『吾妻鑑』によれば、信濃国から甲斐国にかけて不穏な動きがあったと記述。逃亡先は信濃国と考えるのが妥当。菅谷館(嵐山町)とする説もあります。
市外に残る義高に関する伝承
◆長野県に残る伝承、義高の元服にまつわるもの。→寿永2年(1183)1月大室の若宮八幡で元服を挙げて清水冠者義高と名乗ったがその際「清水」を称したのは当地が東山道清水駅の所在地で、清水郷と呼ばれていたため。『平家物語』では、義高が鎌倉へ向かうのは寿永2年3月で、すでに「清水冠者」と名乗る。義高とともに鎌倉へ従った海野氏、望月氏は小諸周辺を本拠とする武士。◆松本市に残る伝承→義高の出生から元服に至るもの。義高は松本で生まれ、信濃国府近くの清水で鎌倉へ送られる直前に元服したため。「清水冠者」を名乗ったとする。この伝承は義仲の松本成長説から派生か。◆木曽福島町にある「志水」の地→義高の伝承は残っていない。『吾妻鑑』が「志水」と表記した理由があってのことか。元服時に幼名を改めるが、生育した地名をつけることが多く見られる。この付近には中原兼遠、義仲の館跡が所在。◆栃木県に残る伝承、佐野市に残る伝承→入間河原で殺害されたのは身代わりの海野幸氏。義高は下野国まで逃げ延び、頼朝の死後北条政子の計らいで和睦が成立。御家人として幕府に仕えたとする。史実によれば、海野氏は頼朝に仕え、弓の名手として名を残した『吾妻鑑』に載る。
七曲井:狭山市北入曾1366
堀兼之井(堀兼神社):狭山市堀兼2220-1
清水八幡宮:狭山市入間川3丁目35-10
※写真は2019年対面式講座のものです。