「緑色」なのになぜ「茶」というの - 狭山茶の歴史 -
日 時:7月13日(水)13:30~15:30
講 師:元狭山市立博物館館長 高橋 光昭 様
受講生:出席11名(欠席0名)
家庭で飲まれているお茶はほとんど煎茶で、色は緑か、やや黄色味を帯びた緑。番茶やほうじ茶になると薄い茶色です。もともとのお茶の色は茶色で、緑になったのは1700年代のことです。「茶」とは、色の茶色が先にあったのか、お茶の色から生まれたのか……などという所から話は始まりました。(休憩時間には受講生から「お茶を染料に使っていたので茶色が先かも……」との情報も寄せられました。)
お茶の伝来と歴史
平安時代、唐に渡った最澄、空海が茶の種を持ち帰り蒔いたのが日本にお茶が持ち込まれた最初だとされています。『日本後記』には815年に永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて献上したと記述されています。これが日本茶に関する最初の記述と言われています。929年の延喜式(奈良・平安時代の律令に関する本)には茶の記録が一切無く、お茶が根付かなかったことが推察されます。
鎌倉時代になると、宋に渡った栄西が日本初の茶の専門書『喫茶養生記』で茶の薬効を説きました。『吾妻鏡』には将軍源実朝の二日酔いを茶で直したと記されています。また、明恵上人は京都の高山寺に茶を植え、ここが日本最古の茶園とされます。鎌倉末期には、京都から伊勢、伊賀、駿河、武蔵等でもお茶が栽培されるようになりました。この頃の茶は僧侶のみならず、武士階級にも浸透していき、茶を飲み比べて産地を当てる「闘茶」が行われました。所沢では今でも狭山茶の種類を当てる闘茶会が行われているそうです。
南北朝時代の『異制庭訓往来』には茶の産地として武蔵河越が載っています。その頃には茶畑もあったのではないかと思われますが、戦国時代に入ると無くなってしまいます。騒乱で茶どころではない状態だったのではないでしょうか。
狭山茶の誕生とその後
江戸時代になると、上広瀬村、下奥富村等の年貢皆済目録や村明細帳には茶の木はあるが年貢を納めるほどではない旨の記述があります。河越茶の野生化したようなものが畦畔茶として植えられていたと思われます。宮寺出身の吉川温恭が農作業中に見つけた茶の葉を摘み取り、茶の試作。しかし、でき上がったのは茶色いお茶だったということです。そこで宇治の茶の製法を探りに行き、苦労して「蒸す→撚る」の工程を経て緑色になることを突き止め、武蔵の国に帰り多くの人に広めたそうです。
明治時代になると横浜が開港し、輸出品として生糸の次の地位を茶が占めました。特にアメリカ人には、高い紅茶の代わりになる日本茶が好まれました。狭山付近から輸出されたお茶も、八王子の商人が扱ったので「八茶」と呼ばれたそうです。その後粗悪品が出回り、アメリカに安いコーヒーが入るようになり、茶の輸出は衰退していきました。
当時のお茶は手作りでしたが、川越藩の侍医高林謙三が製茶機械を発明します。狭山でも機械を導入しますが、不慣れな職人が大量の不良品を生産したため手もみに固執するようになりました。静岡では機械化が進み、生産量が増えます。すると狭山でも志村久松が機械を導入。手もみと変わらない出来で、その後機械製茶が広がっていきました。
今では、全国で栽培されている「やぶきた」の他、「さやまかおり」「ふくみどり」「むさしかおり」などの品種が栽培されています。お茶はもともと亜熱帯性の照葉樹なので、霜害にあわないよう防霜ファンなどの対策がとられています。狭山は茶の北限と言われ、農家の方は「狭山のやぶきたは南のものと葉の厚さが違う。コク、うまみが生まれる」と胸を張ります。
質疑応答
「横浜で開講100周年の時、紅茶は出ていたがお茶はなかった」との質問には、外国商館の人が生糸と同じルートでお茶を仕入れたが、茶は生糸の添え物との理解であったので資料が少ないのではないかとの答えでした。他の方からは、バンクーバーのシティホールで横浜からシルクを運んだという資料に出会った体験が話されました。その他、「茶摘み歌」「とどめ茶」「茶天狗」などについても、先生の詳しい解説がありました。
講義後には、荒川さんからバンクーバーシティホールでの写真と和訳、高塚さんから横浜港からの生糸と茶の輸出品の割合の資料が受講生に届きました。打てば響くとはこのことです。
受講生感想
❖ 資料の出所を明記しながらのお茶の詳しい歴史の講義に聞き入りました。今おいしいお茶が飲めるのも先代の人々の英知のたまものだと思いました。過去のこととはいえ、悪徳商人により良質なお茶が品質を落とされて輸出され、その後輸入されたコーヒーにお茶が負けてしまったことが残念でなりません。
❖ 高橋先生の講座を初めて拝聴いたしました。とてもご丁寧にご説明くださり、楽しく勉強させて頂きました。お茶に関しましては、狭山市民は格別の興味がございます。今日は狭山におけるお茶の歴史を詳しく伺いましたので、是非子ども達にも話し伝えたいと存じます。栄西がタネを蒔いた「背振山」は、私が個人的に馴染みのある山でございましたので、出典について質問させて頂きました。日吉神社も昔馴染みでございます。お茶の木発祥の地なる場所は九州や他にも伝説として色々耳にすることがございますので、今日学んだことをきっかけに、更に学びを深めていければと存じます。ありがとうございました。