「狭山の歴史講座」校外学習第8回 史跡・文化財めぐり「広瀬地区」
実施日:2019年11月21日(木) 8時20分集合~12時30分現地解散
天 候:晴 15度 晴天でしたが秋も深まり北西の冷たい風が吹く天候でした。
地 区:広瀬地区 コース距離 約4.5㎞
コース:狭山市駅西口広場→日生団地バス停…今宿遺跡…影隠地蔵…広瀬公民館(休憩)…信立寺…清水宗徳之墓…広瀬浅間神社…禅龍寺…広瀬神社(現地解散)…広瀬消防署前バス停→狭山市駅
参加者:髙橋先生 受講生14名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会7名 総勢28
◇今回訪れた「広瀬地区」の特徴
今回訪れた広瀬地区は、明治の産業近代化の先覚者として当市域の振興に多大な業績を残した清水宗徳の出身地であり、彼に纏わる史跡に出会えます。また、復元された奈良・平安時代の竪穴式住居や、伝説が残る影隠地蔵、鬼子母神などにも出会えます。今回はその中で、市内では唯一復元された竪穴式住居に触れられる「今宿遺跡」と、延喜式神名帳に載る古社「広瀬神社」をお勧めスポットとしてご紹介いたします。
ϴϴ お勧めスポット① 今宿遺跡 所在地:狭山市広瀬台1丁目22
・今宿遺跡は、日生団地の宅地造成の際に発見され、昭和44年(1969)に市内で初めての大規模な緊急発掘調査が行われた遺跡です。調査面積は78,000㎡、仮に正方形とするとおよそ280m×280mと広範囲に及ぶものです。調査の結果、遺跡は奈良から平安時代の集落跡と分かり、48軒の竪穴式住居跡が発掘され、そのうち3軒の住居跡が保存され、うち1軒が復元されました。これらは昭和51年(1976)に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
・今宿遺跡の竪穴式住居は、一辺の長さが4m前後のものが多く、一部7mを越える大型のものもあります。縄文時代は住居中央部に炉を置いて火を使っていましたが、奈良・平安時代になると、炉の代わりに竈(かまど)を北側か東側の壁際に置き、住居の外に煙を出す工夫がされています。
・この遺跡からの出土品は、土師器・須恵器などの土器が最も多く、鋤・鎌・小刀などの鉄製品やかんざしなどの銅製品も出土しています。なお、今宿遺跡内にある建物には、笹井ダム下流の入間川河床から発掘されたメタセコイアの化石株が展示されています。
ϴϴ お勧めスポット② 広瀬神社 所在地:狭山市広瀬2丁目23-1
・当神社は上奥富の梅宮神社と並ぶ古い神社で、社伝によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に、この地が大和の国、現在の奈良県の広瀬河合の地に似ているところから「広瀬」と命名し、大和の広瀬神社を勧請したとされています。
・祭神は、若宇迦能売命(わかうがのめのみこと)で、食物を司る神として、稲荷神社の五穀豊穣の神である倉稲魂命(うがのみたまのみこと)と同一神と考えられています。
・境内にある2本の大欅(おおけやき)は当神社の御神木で、平成10年(1998)に埼玉県指定文化財・天然記念物として指定されました。参道脇の本殿に近い欅は高さ32m(現在は枝が折れたりして不明)、幹回り6.3m、樹齢は800年を超えているといわれています。
・当神社の絢爛豪華で格調のある神輿は、上広瀬村の名主であった清水宗徳と社補の清水寛右衛門宗宝が奉納したもので、昭和61年(1986)に狭山市指定文化財・工芸品に指定されました。
・斜子織(ななこおり)の碑は、明治10年(1877)に埼玉県令白根多助が当地を訪れたことを記念し明治24年(1891)に建てられたものです。清水宗徳は斜子織の発展にも多大な貢献をしました。
◇おわりに
今回は、川越鉄道の誘致や入間馬車鉄道の敷設、機械製糸工場の設立など明治初期から後期にかけて当地方の交通と産業の発展に大きく寄与した清水宗徳に関連する史跡を巡るとともに、他の地域では出会えない竪穴式住居や火祭り、哀しい伝説などにも触れられ、郷土史に関する新たな発見ができたコースでした。次回は、最終回となる「東三ツ木から青柳地区」です。お楽しみに…。
◇ 第8回「史跡・文化財めぐり(校外学習)」に参加して ◇
機関誌・広報担当 第3班 守谷 泰子
晴天とはいえ、時折冷たい風が吹く中、広瀬地区の史跡・文化財めぐりに参加しました。
最初におとずれた今宿遺跡は、日生団地の宅地造成の際に発見され発掘調査が行われた、奈良・平安時代を主体とする集落跡だそうです。48軒の竪穴式住居跡が発掘され、そのうちの1軒が復元されており、実際に竪穴式住居の中にも入ることが出来ました。当時の人々はどのような生活をしていたのだろうかととても興味がわいてきました。出土品も多くその一部が狭山市立博物館に展示されているとのことなので、後日足を運んで見ようと思います。
上広瀬の少し高台に墓地が有り、ひときわ大きな墓石が建っていました。これは当地出身の政治家で実業家でもあった清水宗徳を祀った墓でした。清水宗徳は川越鉄道の敷設や入間馬車鉄道の再建に尽力するとともに、高品質の絹織物・広瀬斜子を全国的に広め、シカゴ万博では名誉賞を受賞し、宮内省のご用品にもなったそうです。数々の業績を残され、地元の人達から尊敬されたことでしょう。
その高台のすぐ下にまわると、広瀬浅間神社の火祭りの跡が有りました。この火祭りは、明治の初めのころに豊作と安産を祈願し始まったそうです。桑の木の枝を円柱状に束ねた護摩木を燃やす「おたきあげ」が、養蚕神社の前と庚申堂脇の2か所で行われるそうですが、最近は桑の木が少なく材料を集めるのに一苦労するそうです。火祭りの当日は広瀬囃子の山車も出て、露店も出並びにぎやかになるそうです。このお祭りも一度は見てみたいものです。