「狭山の歴史講座」校外学習第3回 史跡・文化財めぐり「峰・田中地区」
実施日:2019年6月6日(木) 8時20分集合~12時15分現地解散
天 候:晴れ 32度 梅雨入り直前ながら快晴で日差しも強く厳しい暑さとなる
地 区:峰・田中地区 コース距離 約4.5㎞、天岑寺で解散。天岑寺から新狭山駅まで約1.5㎞、グランド入口(狭山台)バス停まで約0.7㎞。
コース:狭山市駅東口…市場の荒神さま…峰の愛宕神社と蚕影神社…西峰霊園と西峰稲荷神社…岩船地蔵堂…亀に乗る石碑と石経塔…田中のカンカン地蔵…田中の稲荷神社…清水濱臣の墓…ベルクベスタ狭山店(休憩)…天岑寺(現地解散)。
参加者:髙橋先生 受講生15名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢28名
◇今回訪れた「峰・田中地区」の特徴
当地区の特徴は、江戸時代にこの地域を知行していた旗本小笠原家に所縁のある社寺が多く残っていることです。また、かつてこの地域で盛んであった養蚕に関わりのある神社や、珍しい石碑・石仏等にも出会えます。今回はその中で、この地域の歴史探訪に欠かすことのできない旗本小笠原家に直接結びつく「峰の愛宕神社」と「天岑寺」を“お勧めスポット”としてご紹介します。
ϴϴ お勧めスポット① 「峰の愛宕神社」と蚕影神社 所在地:狭山市狭山9-7
ここには二つの神社が並んでいますが、向かって右側に建つのが「峰の愛宕神社」です。
峰の愛宕神社は伝承によりますと、江戸時代初期に当地で440石(450石ともいわれる)を知行していた旗本小笠原太郎左衛門安勝が、守護神として勧請したといわれています。本殿は宝暦7年(1757)に小笠原太郎左衛門廣芬(ひろよし)が寄進したものです。正面の扉と屋根の棟部分には小笠原家の家紋である三階菱の切り抜きが貼り付けてあり、覆殿の棟にも同じ家紋が付いています。なお、本コースで訪れる田中の稲荷神社も小笠原家が奉納したものと思われ、覆殿の棟に小笠原家の家紋三階菱が取り付けられています。
向かって左側に建つのは蚕影神社です。この神社の創建は不明ですが、茨城県つくば市にある蚕影神社を勧請したものと推察されます。祭神は稚産霊神、埴山姫命、木花開耶姫命の3神で、古くから養蚕の守護神として信仰され、関東地方一帯では俗に「おしらさま」と称されています。
ϴϴ お勧めスポット② 天岑寺 所在地:狭山市沢5-34
このお寺は大龍山天岑寺といい、宗派は曹洞宗で、俗に沢の天岑寺と呼ばれています。
文禄3年(1594)に天海盛呑(てんかいせいどん)により開山され、開基は江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝です。天岑寺という寺名は、安勝の亡き父安元の戒名である「天岑院殿紹恩居士」から命名されたといわれています。
★惣 門
沖縄風のたたずまいをした惣門(そうもん)は、昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。惣門とは外構えの大きな門のことで、特に禅寺の表門のことをいいます。
創建当時の建物として唯一残るこの惣門の正面には扁額が掲げられており、通霄関(つうしょうかん)という文字が刻まれています。これは“天に通じる門”という意味です。
★月待供養の碑
境内にある二十三夜の月の出を待つ「月待供養の碑」は、阿弥陀三尊来迎図を主尊として文明14年(1482)に建てられたものです。昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・有形民俗文化財に指定され、民俗学的にも中世に建てられた「月待供養の碑」は珍しいものといわれています。
★旗本小笠原家墓所
このお寺にある旗本小笠原家墓所は、平成18年(2006)に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。小笠原家は天正18年(1590)の徳川家康関東入国に従って、三河国幡豆(はず)郡(愛知県東部)から武蔵国入間郡に来たものです。墓所には、12代にわたる当主やその妻、兄弟、子供などの墓石があり、初代の父(安元)と初代(安勝)の2基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を中心に整然と「コ」の字型に並んでいます。
◇おわりに
本日は第3回目の校外学習でした。真夏のような暑さの中で、前半最後の史跡・文化財めぐりを無事終えることができました。今回は江戸時代にタイムスリップし、この地を知行していた旗本小笠原家と峰・田中・沢地区に暮らす民衆の思いが蘇ってくるような史跡・文化財めぐりでした。歴史は一時も休むことなく流れていきますが、その地域に息づく民衆の純朴な心は今もどこかに脈々と受け継がれているような感じがします。
次回は、夏休み後9月に訪れる「入間川地区」の史跡・文化財めぐりです。お楽しみに…。
◇ 第3回「史跡・文化財めぐり(校外学習)」に参加して ◇
機関紙・広報担当 1班 髙橋 ミツ子
梅雨入り間近なこの日は、午前11時頃には外気温は30度超え、湿度は低いものの木陰を求めて歩きました。狭山市駅東口は周辺整備に伴いすっかり変貌しています。祇園にある「市場の荒神さま」は周囲の木々が伐られ寂しい風景です。かつてこの神社は、地元の養蚕農家の間で“蚕の守り神”として信仰され、祭りの時はさぞ賑わったことでしょう。市場の大野家所有の神社とのこと、ずいぶん裕福なお家だったんですね。
峰・田中地区はお茶畑と桑畑が広がり活気のある地域で、お茶は新河岸から船で江戸へ運ばれたそうです。繭はどこで糸になったのでしょう。暦もお蚕に合わせていたと聞いています。
愛宕神社の覆殿の中にある本殿の屋根は、「杮葺き(こけらぶき)」と言うそうです。杮葺きとは、檜(ひのき)や槙(まき)などを薄く割いた板を重ね葺いた屋根のことで、間近に拝見し感動いたしました。
田中のカンカン地蔵さまは、お体のあちらこちらがえぐれています。近隣の人々が自分の体の悪いところと同じ場所を小石で叩き治病を祈願したためです。
西峰霊園の念仏供養塔は峰村の念仏講中が建てたもので、その信仰は生活の一部になっていました。またこの地域ではお坊様が人々に読み書きを教えたとのこと、とても良い人間関係ですね。
田中の稲荷神社境内の大木の木陰はとても涼しく、たくさんの子供たちが遊びまわっていたことでしょう。都市化が進み古の貴重な資料は埋もれてしまうのでしょうか。