「狭山の歴史講座」野外学習 第8回 史跡・文化財めぐり「広瀬地区」
実施日:平成30年11月22日(木) 8時20分集合~12時15分現地解
天 候:曇り一時小雨 13度 風なし 心配された降雨もほとんどなく無事終了しました。
地 区:広瀬地区 コース距離 約4.5㎞
コース:狭山市駅西口広場→日生団地バス停…今宿遺跡…影隠地蔵…広瀬公民館(休憩)…信立寺…清水宗徳之墓…広瀬浅間神社…禅龍寺…広瀬神社(現地解散)…広瀬消防署前バス停→狭山市駅
参加者:髙橋先生 受講生18名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢31名
◇はじめに
本日訪れた広瀬地区は、明治の産業近代化の先覚者として地域振興に多大な業績を残した清水宗徳の出身地であり、彼に纏わる史跡に出会えます。また、復元された奈良・平安時代の竪穴式住居にも直接触れることができます。さて、今回はどんな発見があるのでしょう?…さあ~出発!
◇見学場所① 今宿遺跡
・今宿遺跡は、日生団地の宅地造成の際に発見され、昭和44年(1969)に市内で初めての大規模な緊急発掘調査が行われた遺跡です。調査面積は78,000㎡、仮に正方形とするとおよそ280m×280mと広範囲に及ぶものです。調査の結果、遺跡は奈良から平安時代の集落跡と分かり、48軒の竪穴式住居跡が発掘されました。そのうちの3軒の住居跡が保存され、うち1軒が復元されました。これらは昭和51年(1976)に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
◇見学場所② 影隠地蔵
・かつての鎌倉街道上道(かみつみち)、現在の奥州道交差点付近に建っているこの地蔵菩薩は「影隠地蔵」といわれ、昭和52年(1977)に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。全高110㎝、像高83㎝で丸彫りの地蔵菩薩の名前の由来は、木曾義仲の嫡男清水冠者義高が鎌倉からここ広瀬の地まで逃げて来たとき、源頼朝の追っ手が迫ってきたので、この地蔵菩薩の背後に隠れて危急を逃れたという伝説から生まれたもので、それ以来「影隠地蔵」と呼ばれています。
◇見学場所③ 信立寺
・当寺は惺按山(せいあんざん)信立寺といい、江戸時代から続く市内唯一の日蓮宗寺院で池上本門寺の末寺です。創建は古記録によると天正7年(1579)と伝えられていますが、開山の池上本門寺12祖日惺聖人(にっせいしょうにん)の伝記によると天正18年(1590)頃ともいわれています。
・開基は、当地方を知行していた加治左馬助家信(かじさまのすけいえのぶ)で、隣接する墓地の中央辺りには家信の墓と伝えられる五輪塔があります。
・本堂に向かって左側に鬼子母神(きしもじん)を祀ったお堂がありますが、鬼子母神は法華経の守護神として日蓮宗や法華宗の寺院では多く祀られています。
◇見学場所④ 清水宗徳之墓
・清水宗徳は、狭山市(旧上広瀬村)出身の明治の産業近代化の先覚者で、また政治家でもあった人です。その活動は極めてスケールが大きくかつ時流を見極める先見性に優れた大人物であったと評されています。この墓は宗徳とその夫人を祀った墓で、昭和55年(1980)に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。墓の高さは全高369㎝です。
宗徳は天保14年(1843)に、上広瀬村で代々名主と広瀬神社の神官を勤める清水家の長男として生まれました。明治維新という時代の変化に合わせて製糸業や鉄道事業にも取り組んで入間郡西部地域の産業振興に努め、政治家として県会議員、衆議院議員としても活躍し、国政や地方の殖産興業に大活躍をしました。
◇見学場所⑤ 広瀬浅間神社
・当神社は万延元年(1860)に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講により創建されました。河岸段丘を利用して造られた当神社の富士塚は、登り口に石造の立派な鳥居があり、頂上には富士浅間宮と刻まれた石碑が建てられています。
・当神社にはお社がなく、境内にある庚申堂が浅間神社であると間違いやすいのですが、このお堂には、かつて正覚院(しょうがくいん)にあった庚申塔が祀られています。この庚申塔は寛政11年(1799)に建てられたもので、丸彫りの青面金剛は市内ではこれ1基のみです。
・当神社の火祭りは、明治時代初期から豊作、安産を祈願して始まったもので、富士吉田市に鎮座する富士浅間神社の鎮火祭を模したものといわれ、毎年8月21日に当地の富士講の手で行われています。この火祭りは、平成9年(1997)に狭山市指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。
◇見学場所⑥ 禅龍寺
・当寺は万寿山禅龍寺といい、宗派は曹洞宗です。境内にある三仏堂内に安置されている木造千手観世音菩薩坐像は、昭和61年(1986)に狭山市指定文化財・彫刻として指定されました。この観世音菩薩坐像は寄木造りで頭上に10の尊顔と阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を戴き、合掌印を結んだ2本の手を除き40本の手を持ち、光背は舟形の透かし彫りで、瑞雲の中に11面の円鏡が配置されています。40本の手はそれぞれ25の世界を表し、40×25で千手と説明され、台座は華盤(けばん)が大きく反り返る堂々たるものです。
◇見学場所⑦ 広瀬神社…見学後、現地解散
・当神社は上奥富の梅宮神社と並ぶ古い神社で、社伝によると日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折に、この地が大和の国、現在の奈良県の広瀬河合の地に似ているところから「広瀬」と命名し、大和の広瀬神社を勧請したとされています。
・境内にある2本の大欅(おおけやき)は当神社の御神木で、平成10年(1998)に埼玉県指定文化財・天然記念物として指定されました。参道脇の本殿に近い欅は高さ32m(現在は枝が折れたりして不明)、幹回り6.3m、樹齢は800年を超えているといわれています。
・斜子織(ななこおり=魚子織)の碑は、明治10年(1877)に埼玉県令白根多助が当地を訪れたことを記念して明治24年(1891)に建てられたもので、全高は223cm、幅は234cmという大型の石碑です。
◇ 第8回「史跡・文化財めぐり(野外学習)」に参加して ◇
機関誌・広報担当 第3班 江尻 敏子
11月22日は暦の上では「小雪」ですが、色鮮やかな紅葉、庭先には鈴なりの柿を見ながら曇り空の下晩秋の史跡めぐりをしました。今回の史跡めぐりで特に印象に残った場所は、今宿遺跡、影隠地蔵、清水宗徳之墓、広瀬神社でした。
◆今宿遺跡は、近くに住んでいながら歴史的な建物がある事を知りませんでした。この遺跡は昭和44年に日生団地の開発に伴い発掘され奈良、平安時代の集落跡48軒の竪穴式住居跡が出土し、3軒が保存されそのうちの1軒が復元されまた。また出土品も多く、その中の須恵器はロクロで整形したのち登り窯を使って高温で焼いたそうです。
◆影隠地蔵は、清水冠者義高が追っ手から逃れるため地蔵の背後にその姿を隠したところから名付けられたそうです。現在は根山地区の人がお地蔵さんの掃除をしているそうです。
◆清水宗徳は、養蚕業を盛んにするとともに、彼の提唱の下で斜子織生産者が「広瀬組」を結成し、その品質の良さが絶賛され、広瀬産の斜子織は最高級品としての地位を確立しました。また清水宗徳は鉄道の利便性に着目し、川越から入間川、所沢を経て国分寺に至る「川越鉄道」の敷設に執念を燃やし開通させました。墓石の前には経営改善に取り組んだ「入間馬車鉄道」のレールが供えらています。全財産を使い果たし人々の為に尽力した偉大な人であり感銘しました。
◆最後は広瀬神社です。境内には御神木の欅の巨木が2本あり、樹齢800年を超え広瀬地区のシンボルとして見守っています。また「埼玉県の木」にもなっています。立派なお神輿は重量が約400kgもあり、中央には三つ巴紋を打ち出した丸金具がついています。地域に残された歴史を、改めてもう一度ゆっくり巡ってみたいと思います。