「狭山の歴史講座」野外学習 第5回 史跡・文化財めぐり「堀兼地区」
実施日:平成30年10月11日(木) 8時20分集合~12時30分現地解散
天 候:曇 22度 曇時々小雨 風なし 前回に引き続き野外学習には適温でした。
地 区:堀兼地区 コース距離 約7㎞
コース:新狭山駅南口集合→新狭山ハイツバス停…光英寺…堀兼新田…上赤坂の石仏群…堀兼・上赤坂公園(休憩)…堀兼神社…権現橋袂の石仏群…下新田の石仏群(現地解散)
参加者:髙橋先生 受講生21名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会6名 総勢34名
◇はじめに
堀兼地区は、武蔵野台地の北端に位置し古代から水の乏しい土地であるため、井戸跡遺跡や弁財天など水に関わる遺跡に出会えます。また、江戸時代に始まった新田開発の魅力にも触れられます。自然豊かなコースの中で、今回はどんな発見ができるのでしょう?…さあ~出発!
◇見学場所① 光英寺
・このお寺は堀金山山王院光英寺といい、宗派は真言宗豊山派で、本尊は木造大日如来坐像です。創建については、数度の火災により古記録を失い不明です。
・江戸時代の記録よると、堀兼地区には4つの寺がありましたが、明治時代に他の寺は廃寺となり現在はこの光英寺のみとなっています。なお、このお寺の山門は江戸の護国寺の裏門が移設されたものと伝えられています。
◇見学場所② 堀兼新田
・土地が広く整然と区画されているこの周辺一帯が堀兼の新田です。堀兼村は江戸時代前期に開発されて誕生した、当市内における最初の本格的な新田村です。
新田開発に着手したのは慶安2年(1649)で、開発を命じた人は川越藩主で当時老中であった松平伊豆守信綱です。新田の特徴は土地区画が整然としている点にあります。入植者に与えられた土地は、間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の長方形の土地で、面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした。
◇見学場所③ 上赤坂の石仏群
・農作物に豊作をもたらす作神・水神である弁財天が、ここに建てられたのは元禄13年(1700)です。頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてありません)、左手に宝珠を持つ姿に造られ、台座には波を切って走る帆掛舟が刻まれています。
※ 石仏が建つ場所は交通量が多いため、休憩所の堀兼・上赤坂公園でガイド説明をしました。
◇見学場所④ 堀兼神社
・当神社は江戸時代まで浅間宮と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に浅間神社と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。
・本殿厨子は、創建時の厨子が古く破損が著しいため、延宝6年(1678)に再興したことが棟札に記されています。この厨子は木造の黒漆塗りで、一間社入母屋造り、唐破風の向拝があります。江戸前期~中期の武蔵国農村地域の宗教建築を知るうえで貴重な文化財です。なお、この堀兼神社本殿厨子附棟札一枚は、平成29年(2017)に狭山市指定文化財・工芸品に指定されました。
・堀兼之井は昭和36年(1961)に埼玉県指定文化財・旧跡に指定されました。
堀兼之井は日本武尊が東征のおり、水がなくて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで掘ったものと伝えられています。石の欄干を巡らした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁がありますが、現在は大部分が埋まっていて、かつてどのような姿であったかは不明です。
◇見学場所⑤ 権現橋袂の石仏群
・権現橋の由来については、橋の袂に子大権現が祀られているところから権現橋といわれ、その下を流れている川は不老川で、昔は「としとらずがわ」といわれました。また、権現橋下流の直線部分は伊豆堀と呼ばれていました。これは川越藩主・松平伊豆守信綱が堀兼の新田開発を行ったときに、河川の改修を同時に行ったためです。
・橋の袂には子大権現の他に、月待供養塔、馬頭観音、地蔵菩薩などの石仏が並んでいます。
◇見学場所⑥ 下新田の石仏群…見学後、現地解散
・下新田の共同墓地に建つ普門品読誦供養塔(ふもんぼんどくじゅくようとう)は、明治3年(1870)に建てられた比較的に新しい石塔です。正面に「普門品供養」と刻まれているように、観世音菩薩普門品、一般に観音経という経典を一定回数唱えた記念として建てられた文字塔です。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、作善としての道しるべも兼ねています。
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◇ 第5回「史跡・文化財めぐり(野外学習)」に参加して ◇
機関誌・広報担当 1班 角田 栄子
馬頭観音さんは、忿怒型の観音で姿形には人身で馬頭を頂いており、忿怒型を表して諸々の魔障を減ずる観音として尊敬される。梵名の「ハヤグリーヴァ」はヴィシュヌ神の化身の一つ。プラフマー神の妬みと嫉妬で頭が落ちろと呪詛される。其のため頭を失ったヴィシュヌ神は代わりに馬頭を付けて苦行し、シバ神の恩恵により旧型に復したが、頭に馬頭を付けるようになったといわれている。これが仏教に取り入れられたものであろうといわれており、ヒンズー教に由来する。
▲権現橋の街道筋にたたずむ馬頭観音様(上記・権現橋の石仏群写真の左から2番目)は、頭に馬頭を載せ、お顔は忿怒の表情をしておられるはずですが、破壊が進みはっきりと表情は読み取れません。ズボンを履き足元は裸足です。手は、6手の内2手は明王馬口印を結び残りの4手は斧・宝輪・弓・矢を持っています。そして120㎝足らずの大きさに作られています。先祖の供養とともに、自らの二世安楽を願ったものと思われます。
狭山市内には124基の馬頭観音様が確認されていますが、中には坐像として祀られているものもあります。
▲堀兼神社の境内に入って右手のところの石仏群の中に「馬頭観世音」と記された石碑があります。道しるべとしての役割と、昔の交通の守り本尊として、旅の安全を祈願していたものと思われます。またお百姓さんたちの愛馬を供養して祀られているものもあります。
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