狭山の歴史講座」第3回史跡・文化財めぐり「峰・田中地区」
実施日:平成30年6月7日(木) 8時20分集合~12時15分現地解散
天 候:晴れ 28度 前日に梅雨入りした天候が一転し、日差しも徐々に強くなる。
地 区:峰・田中地区 コース距離 約4.5㎞、天岑寺で解散。天岑寺から新狭山駅まで約1.5㎞、グランド入口(狭山台)バス停まで約0.7㎞。
コース:狭山市駅東口…市場の荒神さま…峰の愛宕神社と蚕影神社…西峰霊園と西峰稲荷神社…岩船地蔵堂…亀に乗る石碑と石経塔…田中のカンカン地蔵…田中の稲荷神社…清水濱臣の墓…さやまケーブルテレビ(休憩)…天岑寺(現地解散)。
参加者:髙橋先生 受講生24名 スッタフ6名 狭山歴史ガイドの会5名 総勢36名
◇はじめに
本日は前半最後の野外学習として、「峰・田中地区」と合わせ「沢地区」をめぐりました。当地区では、江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝や、かつて当地で盛んであった養蚕業にゆかりのある史跡・文化財に出会うことができます。また、病を治してくれる地蔵尊や珍しい石碑にも遭遇します。さて、今回はどんな発見があるかな?……さ~出発!
◇見学場所① 市場の荒神(こうじん)さま
この神社の正式名称は三柱(みはしら)神社といいます。創建等は不詳ですが、地元の人は「市場の荒神さま」と呼んでいます。「市場の荒神さま」として親しまれるようになったのは、江戸時代中期から地元の養蚕農家の間で“蚕の守り神”として信仰されるようになったことからです。
◇見学場所② 峰の愛宕(あたご)神社と蚕影(こかげ)神社
ここには二つの拝殿が建っていますが、向かって右側が愛宕神社で左側が蚕影神社です。
愛宕神社は伝承によりますと、江戸時代初期に当地で440石(450石ともいわれる)を知行していた旗本小笠原太郎左衛門安勝が、守護神として勧請(かんじょう)したといわれています。
蚕影神社の創建は不明ですが、茨城県つくば市にある蚕影神社を分祀勧請したものと推察されています。蚕影神社は古くから養蚕の守護神として信仰され、俗に「おしらさま」と称されます。
◇見学場所③ 西峰霊園の念仏供養塔と西峰稲荷神社
西峰霊園は廃寺となった大日堂があった場所で、大日堂の創建などについては資料がなく不明です。入口の左側にある念仏供養塔は文政7年(1824)の造立で、浮彫立像の聖観世音菩薩が刻まれています。入間川村の枝村である峰村の念仏講中が現当二世安楽、極楽往生を願い建てたものです。
西峰霊園の隣にある西峰稲荷神社は、文化6年(1809)に当地の奈良吉左衛門が京都の伏見稲荷大社から勧請した神社です。現在は西峰地区12軒の氏子が管理し、2月初午には祭事も行われます。
◇見学場所④ 岩船地蔵堂と薬師堂
岩船地蔵堂の創建については資料がなく不明ですが、お堂の中には田中村の人々によって享保4年(1719)に造立された、高さが230㎝もある丸彫立像の岩船地蔵が安置されています。
薬師堂の創建の時期は不明です。昭和40年(1965)始めまで東峰霊園東側に薬師如来を祀った建物があり、地域住民の集会所として使用されていました。その建物が荒廃したため昭和43年(1968)に現在の場所へ新しくお堂を建て、本尊だった銅造薬師如来坐像が移されました。
◇見学場所⑤ 亀に乗る石碑
この石碑は、“亀趺(きふ)”という亀の姿をした台座に乗った「前総持指月和尚行業記碑(ぜんそうじしげつおしょうこうぎょうきひ)」といいます。この石碑には江戸時代に当地で生まれた指月和尚が11歳で仏門に入り、明和6年(1769)に75歳で亡くなるまでの業績や人生訓が、塔身の4面にわたり約2,300字で刻まれ、指月和尚の業績を後世に残すために建てられたものと思われます。この石碑の建てられた時期や造立者は不明です。
◇見学場所⑥ 田中の共同墓地のカンカン地蔵
この墓地の一番奥に、頭や顔をはじめ、いたるところが穴ぼこだらけの石仏がたたずんでいます。俗に「カンカン地蔵」と呼ばれる丸彫立像の地蔵菩薩で、宝永5年(1708)に建てられました。
この地蔵菩薩がこのように何とも痛ましい姿になったのは、目の悪い人は地蔵菩薩の目を、足や腰の悪い人は足や腰をという具合に、小石で叩きながら病の治るのを祈ったためです。小石でたたく音が「カンカン」と響きわたったため、「カンカン地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
◇見学場所⑦ 田中の稲荷神社
当神社は「田中の稲荷神社」と呼ばれ、創建の年代や由緒などは不明ですが、峰の愛宕神社と同様に小笠原家が奉納したものと思われます。小笠原家と関係のある廃寺になった安穏寺(あんのんじ)の守護神として建立されたものと推察されています。
◇見学場所⑧ 清水濱臣(はまおみ)の墓
この清水濱臣の墓は、狭山市指定文化財・史跡として昭和48年(1973)に指定されました。指定の理由は、江戸時代後期の高名な国学者・歌人の墓であること、父親が狭山の田中村の出身で、江戸移住前は当地で医者を業(なりわい)としていたことによります。
清水濱臣は、江戸古学派(こくがくは)の重鎮と評され、江戸歌壇にも大きな地位を築きましたが、文政7年(1824)に49歳で亡くなっています。
◇見学場所⑨ 天岑(てんしん)寺
当寺は大龍山天岑寺といい、宗派は曹洞宗で、俗に沢の天岑寺と呼ばれています。文禄3年(1594)に天海盛呑(てんかいせいどん)により開山され、開基は江戸幕府旗本で当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝です。天岑寺という寺名は、安勝の父安元の戒名である「天岑院殿紹恩居士」から命名したといわれています。
★天岑寺の惣門(そうもん)
この沖縄風のたたずまいをした惣門(そうもん)は、昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。惣門とは外構えの大きな門のことで、特に禅寺の表門のことをいいます。惣門の脇には、高さが265㎝もある立派な結界石があります。この石碑は「臭いの強い野菜や酒などを清浄な寺に持ち込んではならない」ということを示しています。
★天岑寺の月待供養の碑
境内にある「月待供養の碑」は、阿弥陀三尊来迎図(らいごうず)を主尊として文明14年(1482)に建てられたものです。昭和48年(1973)に狭山市指定文化財・有形民俗文化財に指定され、民俗学的にも中世に建てられた月待供養の碑は珍しいといわれています。
★天岑寺の旗本小笠原家墓所
この小笠原家の墓所は、平成18年(2006)に狭山市指定文化財・史跡として指定されました。
小笠原家は天正18年(1590)の徳川家康関東入国に従って、三河国幡豆(はず)郡(愛知県東部)から武蔵国入間郡に来たものです。墓所には、12代にわたる当主やその妻、兄弟、子供などの墓石があり、初代の父(安元)と初代(安勝)の2基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を中心に整然と「コ」の字型に並んでいます。
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前日梅雨入りしたとのことで心配していたお天気も、梅雨とは思えない真夏の日差しにホッとしました。狭山市駅東口8時20分集合、3回目になると皆さん和気あいあいと談笑していました。
最初に祇園にある「三柱神社」に行き、ここに芭蕉の句「古池や蛙飛び込むみずの音」の句碑があることに驚きました。まわりは地域開発によって新しい家が立ち並んでいます。
西峰霊園には「筆子塚」があり、陰陽主が寺子屋を開いて、そろばん、書道などを個人に教え、将来まで見守っていたそうです。このような寺子屋は、全国でも珍しいそうです。
文化財巡りで印象に残った場所は「天岑寺」です。元気プラザに行くときに通る道です。「惣門」は、表門と境内側から見る門の様式が異なる素晴らしい建築です。
月待供養の碑は月の出を待って拝む行事の供養の印として建てた碑です。昔の人は自然を神として敬う気持ちが強かったようです。しかし今は自然がどんどん破壊されています。旗本小笠原家墓所は緑の木立が多く厳かな気持ちになりました。狭山市の歴史が身近なものになってきました。
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◇おわりに
本日は第3回目の野外学習でした。梅雨入り直後で天候が危ぶまれましたが、思わぬ好天となり、前半最後の史跡・文化財めぐりを無事終えることができました。今回は、古き時代の峰・田中そして沢地区に暮らす人々の思いがフラッシュバックしてくるような史跡・文化財めぐりでした。歴史は凄いスピードで進んでいきますが、地域に息づく民の純朴な心は今もどこかに脈々と受け継がれているような感じがします。
次回は、夏休み明け(平成30年9月27日予定)となる入間川地区の史跡・文化財めぐりです。お楽しみに……。