第9回 史跡・文化財めぐり「東三ツ木から青柳地区」
実施日:平成28年12月15日(木) 8時30分集合~11時50分現地解散
天 候:晴天 7度~9度 風強し
地 区:東三ツ木から青柳地区 コース距離 約4.5㎞(バスがなく、新狭山駅までプラス約2㎞)
コース:新狭山駅南口広場…三ツ木公園…東三ツ木の薬師堂…羽黒神社…加佐志の共同墓地…寿荘(休憩)…鎌倉街道跡…青柳の馬頭観音…青柳の地蔵…氷川神社(現地解散)…新狭山駅
参加者:髙橋先生 受講生21名 スッタフ5名 オブザーバー2名 狭山歴史ガイドの会8名 総勢37名
■三ツ木原古戦場跡
・14世紀から16世紀にかけて関東地方は戦乱に明け暮れした時代でした。武蔵野の地も入間川を始として小手指(所沢市)、女影(おなかげ、日高市)など激しい戦いが繰り広げられました。
三ツ木原合戦は天文6年(1537)7月11日から15日まで続きました。現在の狭山市東北部から川越市西南部の広大な地域に、北条方7千余、上杉方2千余、合計約1万人もの軍勢が戦いましたが北条方の大勝利に終わりました。
■東三ツ木の薬師堂
・この薬師堂の本尊の木造薬師如来坐像は14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれています。金子氏は武蔵七党の村山党に属し、鎌倉時代初期の武将金子十郎家忠の子孫である国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めたといわれています。
・石灯籠の形をした石仏は石幢(せきどう)六地蔵です。この六地蔵が建てられたのは銘文から貞享5年(1688)10月15日で、禅定門と禅定尼2名の戒名が刻まれ、「施主、宗広徹」とあるので先祖の廻向(えこう)仏と思われます。
■羽黒神社
・応永年間(1394~1427)に出羽国羽黒山のふもとに、源義家に仕えた大宅光任(おおやみつとう)を祖先にもつ伴蔵人一俊(ばんくらんどかずとし)という人が住んでいました。
ある時羽黒権現が夢枕に立ち、「おまえは武蔵国へ行き土地を開拓し居を定むべし」とのお告げがあり、仲間とともに武蔵国に来てこの地を開拓して永住しました。
そして名前を奥州より来てこの地にとどまったので奥留扇斗(おくとめせんと)と改め、羽黒権現を村の産土神(うぶすながみ)として祀ったのが羽黒神社であると伝えられています。
・当神社の菩提樹は昭和48年(1973)3月1日に狭山市指定文化財・天然記念物として指定されました。菩提樹は幹周り1.9m、高さ約10m、樹齢は約550年と推定されています。ただし現在は、上部が折れて低くなっています。神社の裏には2代目の菩提樹が植えられています。
■加佐志の共同墓地
・耳だれ地蔵と呼ばれるこの地蔵菩薩は、元禄7年(1694)8月に加佐志村の斉日講により現当二世安楽を願って建てられたものです。この地蔵菩薩は何時の頃からか耳だれに御利益があると伝えられています。
■鎌倉街道跡
・鎌倉街道という名称は江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」の地誌や村絵図に記載されていたことから、鎌倉街道と呼ばれるようになりました。
それ以前は上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)などと呼ばれていました。ここは上道の枝道で「堀兼道」と呼ばれる道です。所沢市上新井の所沢中学校東側から堀兼神社の前を抜け、この加佐志の切通しを通って東三ツ木で2つに分かれます。
■青柳の馬頭観音
・この馬頭観音は、一面六臂(いちめんろっぴ)の浮彫立像で享保14年(1729)3月に建てられたものです。
馬頭観音は観音菩薩の変化仏の一つで、六道のうち畜生道にあって、ここに墜ちた衆生の救済にあたる仏とされています。
特徴は浮彫像の右斜め上に「うはっきゅう」という珍しい文字が刻んであります。この文字は本来「鳥八臼」と書かれるのですが、ここでは「鳥八旧」となっており、烏ではなく鳥に、臼が旧となっていて、3つの文字を組み合わせたものです。
■青柳の地蔵
・久保川の畔の小さなお堂に祀られている地蔵菩薩は、享保14年(1729)に青柳村の念仏講の人々によって石橋の完成を記念し、石橋の永続性とこの橋を渡る人々の安全、そして村の平安を願って石橋供養塔として建てられたものです。
昔この辺一帯は葦が茂り、久保川には土手も無く土地の人々は困っていましたが、近くで茶店を営む「せんまつ」という人が草を刈り、川などを整備している時に、この地蔵菩薩を発見して祀ったということで、その後誰いうとなく「せんちゃん地蔵」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。
■氷川神社
・当神社の創建や由緒は古い記録が全く残っていないために不明です。明治45年の「神社由緒調書」にもこうした記録がなく、わずかに現在の社殿は明治14年(1881)12月に再建されたと記されているのみです。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。
・富士塚は浅間塚とも呼ばれています。富士塚の頂上に富士嶽神社と刻まれた富士信仰によって建てられた富士講碑があります。この富士講碑の左右には、猿の石像が建てられているのが特徴です。