受講生寄稿 「狭山の歴史」にふれる機会を得て
狭山の歴史学科 普通コース 河島克美
「毎日が日曜日」となって2年間は、輪番制の管理組合活動に専念して暇をもてあそぶことなく過ごすことができました。しかしそれも終わって「さてこれからどうするか」という時に さやま市民大学に巡り合うことができました。もともと歴史には興味があった私であり、また「SSCC」の経験者である家内の勧めもあって狭山の歴史学科普通コース受講を申し込みました。
4月、入学式での髙橋先生の講演「狭山市域の歴史を訪ねて」をお聴きし、講座に興味がわいてきたことを覚えています。私が知っている歴史、例えば学校で学ぶ歴史は大きな出来事中心に時代の変遷を俯瞰的に眺め、その出来事に関する人物や場所を知識として学ぶものです。
しかし、この講座では我が街「狭山」に視点を置いて、時代がどのように流れて行ったかを1年かけて学ぶもので、今までに経験したことがない歴史の授業であることが新鮮に感じられました。特に、近世の農民は意外と裕福で、しばしば権力者(幕府)が「倹約令」を出して贅沢を戒めていたという髙橋先生のお話には少々驚きを感じました。そのわけは「7人の侍」に出てくる「百姓達」が私の以前の「農民」のイメージだったからで、近世のこの地域の農民の生活に関心を持つとともに1年間の講座が楽しみになりました。
また、この講座は座学ばかりでなく、狭山市域を9地区(柏原、入曽、峯・田中、東三ツ木から青柳、奥富、堀兼、笹井・根岸、広瀬、入間川)に分けての「史跡・文化財めぐり」があり、座学に関連した史跡を目で見て確認する屋外学習も組み入れられ、狭山台在住の私にとっては馴染みの薄い入間川対岸の地区を散策できるのもこの講座のおかげです。
11月の現在、全38回の講座(体育祭、学園祭を含む)のうち既に26回目の講座に進み、座学では「旧石器時代」から始まって「明治維新期」に至っています。
狭山市域の名称は近世以前から存在する村々を表し、検地の記録や村境をめぐる争いの記録、入間川水害の記録等に示されております。江戸時代初期の検地によって村の石高が決まるとそれ以降も変更されることがめったになかったという事柄は、技術の発展による米の収穫量の増大は農民の利益になり、江戸時代の農民は比較的裕福であったことを物語っています。
一方、市内全域の散策も「広瀬地区」ならびに「入間川地区」を残すのみとなりましたが、散策する地区に存在する石仏等の史跡の多くは江戸時代のもので、幕府の意向かもしれませんが当時は現在とは桁違いに仏教信仰が農民の生活に深いつながりがあったことが窺えます。さらに、石仏等の造立には地域の裕福な農民が関わっていたことも銘文等で多々分かっており、戦のない江戸時代は農民にとってゆとりが芽生えた時代であったことを物語っているものと思われます。その他堀兼地区においては、地図上では整然と区画割された短冊状の新田開発の実情を視ることができました。さらに「西方囃子」や「笹井豊年足踊り」は機会があれば是非とも見てみたい郷土芸能であり、「梅宮神社の甘酒」も味わってみたいものです。
講座も残り約3か月となり、お茶の生産の歴史に触れることも楽しみに今後も聴講したいと思います。
入曽地区にある県指定文化財「七曲井」脇に建てられた常泉寺観音堂内で市指定文化財の本尊木造聖観音菩薩坐像の説明を狭山歴史ガイドの会会員から受けました。
堀兼地区の堀兼神社で市指定文化財の堀兼神社随身門の説明を狭山歴史ガイドの会会員から受けました。