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景観地50めぐり

景観地32 三ツ木公園

2015/01/06

三ツ木原古戦場に思いを馳せて

 この辺りは中世にはたびたび戦場になっていたくらいだから、昔は茫々たる荒野が広がっていたに違いないが、史跡とはいっても今は周囲を工場や住宅に囲まれた小さな雑木林の一角があるだけで、ここで度重なる戦が繰り広げられたなど俄かには信じ難い。

 しかし、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」の古戦場の項に「小名三ヶ久保の辺りなり、この古戦を記せしものに三木原と見えしは此処なり、今は皆陸田となる。相伝う昔新田義定鎌倉勢としばしばこの地に戦いし」とあり、「武蔵風土記稿」では三ツ木原古戦場とは元弘3年(1333)の戦を指している。 つまり、新田義定はこの年5月8日に上野(群馬県)で挙兵、同月10日入間に入り11日から鎌倉勢と合戦、小手指や入曾で一進一退の末16日に分倍河原で鎌倉勢を破ったが、その間11日から13日にかけての一時期、三ツ木原も戦場になった。

 また、永享12年(1440)の春に上杉修理太夫持朝が室町将軍義教の命で結城満朝を討とうとした際にもここで戦い、天文6年(1537)川越の城主上杉五郎朝定が亡父朝興の遺命で北条氏綱を滅ぼさんと兵を進めてここが戦場となり、同15年の川越夜戦でもこの辺りが拠点となるなど、三ツ木原は古くから度々戦場となった。近くを所沢から鎌倉街道が通っており、北条方はこの道から押し寄せたもの。

 現在は隣接してホンダの工場があり、西武新宿線の新狭山駅にも近く昔の面影は全くないが、僅かに雑木林の史跡小公園になっており、それらの歴史を記した石碑が立っている。昭和45年7月に建立したもので、石碑の所有者・管理者は狭山市教育委員会。(花形直平)

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